三増合戦を地図を見て考える 信玄旗立て松 浅利明神 首塚 |
愛川町歴史の山巡り |
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7月7日 勝楽寺 サツマイモナリ似の花 『武田信玄の旗立て松』眺望 『武田信玄の旗立て松』 浅利明神は合戦場の記念碑から北に進んだ方角にある。金山地区の奥まった所でゴルフ場が直ぐ隣にある。余りにも物寂しい場所なので写真はご遠慮した。 |
7月7日、暑い日が続きおまけに釣りに通い出して山に足が向かない。今登るとしたらやはりある程度の高所から登り始めないと、暑くてバテてしまう。そんな山は移動時間が掛かるので結局一日では行けない。 そこで 、ついつい楽な事を考え三増の合戦場付近を歩いてみた。 最初の館山は厚木市と愛川町にまたがった山で、鎌倉幕府の時代に源頼朝が狩りをした際、山上に仮屋を置き、そして戦の際の”のろし場”として使われた山である。その跡の石積みが残っていると郷土誌に書かれていた。 そして、歴史を遡り、小田原の北条と甲斐の武田が1戦を交え総勢四千名近くが亡くなった三増の合戦場にある『武田信玄の旗立て松』へ移動し、更に京都の宇治川の戦いの際に木曾義仲の軍に先陣争いをした時に用いられた名馬『するすみ』の生まれたするすみの沢までを歩いてみる。 館山の近くの勝楽寺の山門を見る。この造りは立派でこれを造った半原地区が匠の里と言われているのもこれを見るとうなずける。 ここでは毎年4月17日の春まつりに、近郷近在の新花嫁さんが挙式の当日の晴れ姿でお参りする習わしがあるので「美女祭り」として賑やかである。地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的な言い方です。 大樹の杉と銀杏の木立に囲まれた、荘厳で美しい山門です。(間口9.1m、奥行5.5m、高さ16m、門脚12本二層銅板葺、県央随一の山門) ここから厚木方面に坂を登る。しかし、R412ではなく『たまのや』のわき道を登ります。ここは昔の道で『沓掛の道』と呼ばれている。この道を登り切るとR412に突き当たる。ここから左に進むと砕石場があり目的の館山はその上になる。 登り口を探すが見当たらない。それらしき道があり進むと墓地で切れてしまう。仕方が無いのでこの山を右に回りながら道を探す。反対側の丸山地区まで行っても 結局みつからなかった。 それでも丸山地区ではムラサキ色の花や黄色い花が栽培されており目を楽しませてもらった。この山は頼朝が石橋山の戦いに敗れて敗走した時に一夜を過ごしたと言われている。ここから眺め て荻野村、半原村ともに谷戸(谷間)が九十九で、鎌倉が百あったので幕府を鎌倉に決めたとされている。 元来た道を戻り田代の町に入った。そこから小学校脇を抜けて上志田方面にでる。すると古い石の道標があり 『右 大山』の文字が読めた。そこを左に行き少し大きな道に突き当たり右に進むと三増合戦場記念碑の所に出た。 歩いて思った事は文献に合戦の際、両軍四万人が戦ったと有るが、それに段々と疑問を持つようになった。車で走っている際には面積に対する感覚が鈍ってしまっていたが、隅から隅まで歩いてみると確かに疲れる程歩くが、四万人もあの スペースに入ったら相当な混雑になるのではないだろうか?(後日、一人当り面積を計算 してみたい) 又、中津川から三増を見ると全て急な崖のようになっており、一気に攻めこむには非常に無理がある。どんな方法で北条側は攻め登ろうとしたのだろうか?等など一寸考えながらのハイキングになった。 また、上三増にはハイキングコースの設定がありここには興味深い言い伝えがある*牛松山があり、周辺 では山百合を見る事ができる。 更に『武田信玄の旗立て松』の看板に沿って進む。残念ながら距離が書いてないので行けども行けども着かない。(距離が書いてないので 看板があれば一般的には近いと判断してしまう) そのうちゴルフ場の前に到着し、大きな門が行く手を遮るように構えている。しかし、矢印はゴルフ場 の中を指している。 そのまま進んだ。 ゴルフ場の駐車場を過ぎてもその矢印は続いた。少し後ろめたくなったが、更にそのまま進んだ 。 高度計が300mを過ぎたところでベンチがあり、そこから暫くすると『武田信玄の旗立て松』に到着できた。 ここの眺望は素晴らしく、三増地区は勿論の事、相模原や最初に行った館山も望める絶好の場所であった。信玄はここを中心にした鶴翼の陣で北条を迎え撃ったと言う。残念ながらその当時の松は火事で焼失してしまった様だが 、巾50m位のこの場所を隅から隅まであるいて眺望を楽しんだ。とにかくここには1度登って頂きたい。 更にそこから上志田峠を通り津久井方面まで歩き、そこを今度は厚木に戻り『すみすえ』の沢探しに半原小学校に向かった。 残念ながらこの沢も見つける事が出来ず。1勝2敗の歴史の山を尋ねる旅だった。
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牛松頂上 ゴルフ場から見た牛松
大木と共存する太い蔦 |
牛松山(三増ハイキングコース)天気もあまりパッとしないので車で遠くまで行く気がしない。低い山でも登って気分転換をしようと思い、三増のハイキングコースを選んだ。 ここは前回道が分からず行けなかった所だ。その理由は、運動公園を右に巻きながら登ると道標があるものの、その指している方向は下の墓地を向いていたので明らかな間違い(いたずら)と思った。 今回はその指す方向を疑わずに進んでみた。ゴルフ場の脇を通ると階段が出来ていた。ここで間違いが無い事が分かった。 登る事おおよそ10分で山頂に着いた。 ゴルフ場は勿論、田名や相模原方面が良く見渡せた。石碑には伊豆・房総半島も見渡せるとあったが生憎の天気で全く見えない。 また、『この牛松は信玄の旗立松や東にある天狗松を含めて三増の三松として古くより知られ親しまれてきた。』と石碑に刻んであった。はてまた、東の天狗松を今度は探しに行かなければならなくなった。 昔はここで『山遊び』なる民族行事が毎年行われていて、八十八夜の夜に老若男女が集まり清遊した場所である。 ここからハイキングコースを進むが、残念ながらお墓を眺めるだけで楽しくはなかった。道祖神の有る所まで下ったが、元に戻りゴルフ場の中を通り、美化センターの方に向かった。すると、途中の山にここでも道祖神と思われる祠があり(殆ど朽ちていた)その周りには大木が数本聳えていた。 ここは来て良かった。残念ながらカメラのバッテリーが切れて1枚しか記録できなかったがいい大木だった。 |
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三増峠(3月16日)歴史の山巡りで、今回は三増峠を女房と二人で歩いてみた。トンネル手前の右側(厚木から来て)に登り口があった。 しかし、駐車場はどこにもない。仕方が無く手前に戻り右側林道入り口の歩道(歩いている人は全くいない)の上に置いた。 この舗装道路が出来てからこの周辺は環境が悪くなっている様だ。津久井から来る人にとっては時間を大幅に短縮させる道だったが利用方法を間違った輩がいるようである。 さて、すぐに舗装された道は消え、右側に砂防ダムが見えると少し登りがキツクなった。お尻の重い女房に合わせてゆっくり進む。 道幅がひとヒロも無いが信玄たちはどのようにこの道を下ったのだろうか?その当時はもっと道が広かったのか?とか。何故、志田沢の近くに居ながら志田峠を通らなかったのか?わざわざ三増峠迄戻ったのはどんな理由があったのか。 三増合戦への疑問がふつふつと湧いてくる。しかしながら、知識が乏しく推論が全く出来ない。早々と諦めて、振り帰って女房を待った。 凡そ15分程で峠に到着した。立派なお地蔵さんが峠を歩く人を見守っていた。もう何年ここで見ていてくれたのだろうか。 峠の先は左右に分かれていた。少し進むが展望は利かない。正面に根小屋の町が見えるだけである。 一人ならもっと先まで歩くのだが、ご機嫌を損ねるとあとあと面倒なので折り返して帰ることにした。後日この先を進んで見たい。 |
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イヌマキの大木 中津川 |
館山(12月31日)夏に登れなかった山に積極的に登り始めている。その理由は、只1つ、蛇が苦手だからである。でも強いて理屈を付ければ、葉が落ちた方がまわりの景色が見易い為で もある。 12月31日、狼煙場の址があると本にあったので、それを見てみたくなった。登り場所は前回途中まで進んだところから進めば良いはずだった。 草を掻き分けて進むと、狼煙場があった というだけあって、見晴らしは良かった。田代の町も信玄の旗立て松も、一望できた。しかし、肝心の狼煙場後は、見つからなかった。頂上付近は木がぎっしり植わっていて、凄く歩き辛い所だった。 只少し下がった所に10坪位の平坦地があったので、ここがその場所ではないかと、勝手に思った。また、反対側には鉄塔があり、その脇に少し整備された道が続いていた。それを下りると大きなイヌマキの木の下に権現様を祭った社があった。それをさらに下るとガソリンスタンドにでる。最初からこの道から登れば良かった。 僅か10分位の山だが、経ヶ岳に登るついでに立ち寄るのも良いのではないでしょうか。但し、展望は頂上では望めません。鉄塔の反対側(半原より)に抜けてください。 |
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田代市街 |
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桜坂(8月3日)尾山耕地の遠景を取ろうと箕輪地区を走っている時、坂の途中で案内板を見つけた。 そこには『この坂は古くは刺坂(さしさか)と呼ばれていた。刺はあて字で本来は焼畑耕作を意味する「サス」と思われる。その昔、字蔵屋敷あたりは焼畑地でありそこへ通じる坂道ということで「サス坂」となった。また、小沢城落城の際城の松姫は身をはかなんでこの坂下の大沼に投身したという。その折悲嘆にくれた供の者がここで胸を刺して自害した。そして刺坂の名が起こったのだと言う伝説もある。傾斜の急なこの坂は古来より人や馬が災禍をこうむることが多かったので不吉な刺坂の名を忌み桜坂と改称した。 』と書いてあった。 沢があり、わさび田もあるこの周辺に大沼があったのも頷けた。そして坂を下った先にもまた看板があった。 『かってここは底なしと呼ばれた大沼で岸辺には姫の松という老松があった。遠い昔のことである。相模川べりの小沢に城があってそこに美しい姫がいた。時は戦国の乱世で小沢の城も戦火の渦に巻き込まれてついに落城。悲運にみまわれた姫は侍女ともども城を出て、ここまで逃れてきたが身の行く末をはかなんで自ら大沼に身を投げて果てたという。姫の松はそのとき岸辺につきさしてあった姫の杖が根付いたものだと言われる。 』 そしてその脇には今は小さな松が植わっていた。この町にこんな話があった事など全く知らず、歩いていて得る事が出来た。 |
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三増の夕焼け |