台場を壊さないで

河下町の河下台場(砲台)は絵図と遺構が残った唯一のものです。現在、出雲市は「藩の海防状況を知る貴重な遺構」としていますが、遺構の規模についての判断が誤っています。市の解釈だと規模が過小評価され、南側の貴重な部分が壊される事になってしまいます。「十六島湾台場群を守る会」ではそれを保存する為に活動しています。

河下台場位置

 

@網屋遠見場所

A網谷台場

B小津紀伊台場(消滅)

C河下東西台場

D河下釜屋台場(消滅)

 

河下台場概要

【台場とは】

台場は大砲を据えて、外国船舶の接近に対して、砲撃を加える目的で築かれた施設です。江戸時代後期に幕府の命を受け、松江藩が海岸に25箇所の台場を設置。

台場にあわせて、警戒のため展望の良い場所遠見場を設置しています。台場は全国で1000箇所築造されていますが、その中で残る台場は僅かです。

となりの鳥取県では4箇所が国指定史跡になっています。

【遺構】

河下台場跡は東西の2基の台場があり、石垣と土塁が良好に残存している。銃門は残っていない。

西台場---扇状地の浜に地形なりに造られていて、長さ65m、巾14mの2段の石垣・土塁が見られる。絵図からは3段構造と考えられる。

東台場---浜に向って斜めに造られていて、長さ30m、巾13mの石垣・土塁がみられる。

図中”土居”は胸墻(きょうしょう)のことで敵弾を防ぐために、また、味方の射撃の便をよくするために、胸の高さほどに築いた盛り土の事です。

台場から見た猪目

上記絵を右から見た写真

 

平成10年6月『ふるさとぶらり見てある記』

右記をクリックしてください

 

県内最高の完成度

 

horizontal rule

アーチ型の洋式台場が出現!

   釜屋と別もの 築造年代も判明

昭和十年の島根県史蹟名勝天然記念物調査報告七輯に野津左馬之助のよって鹿島町・古浦台場が「松江藩営古浦砲臺阯」と題されて報告された。この報告において古浦の東西の台場は僅かの間隔で築かれ260間(472.7b)の一文字土居として記述され、描かれている。

夏草で覆い隠された川下台場を何度か踏査した。古浦台場の先入観と十六島の網屋台場の例から一文字土居の在来(和)型の台場だと今日まで想定して来た。

 それが、この度道路計画で測量された500分の1平面図を見せられて驚いた。土塁に砲床段、それに兵站空間と空堀も弧状を呈しているのではないか。(写真のとおり)

測量図から半径(R)を求めると土塁下端で約120b(66間)、兵站地外端で91b(50間)であることから、円(弧)形プランで企画設計されていると断定できる。

松江市誌に「杵築・川下村に砲台を築く、杵築には5月から川下には7月から戦士一隊、砲術士一組、先手足軽組二組を出張させた。」としている。起工された年月は不明であるが、台場の竣工後か、それに近い頃に藩兵の派遣であったろうから、文久3年に完成した新台場であると特定でき、築造年代も明らかとなった。

また、この度の草刈りにおいて、西洋式台場でしかも、斬新で機能的なアーチにするという、松江藩の学問(軍事)水準の高さが浮かび上がる貴重な台場が姿を見せた。また、同市誌によれば、藩士佐藤彦次郎が洋式兵学を修めるために江戸に留学している。彼の設計であろうか

古浦台場との比較

絵図面 「川下村 松崎新台場(西台場)」

先の野津氏が報告した古浦台場と川下・新台場を比較すると構えに類似点も多い。

立地が河口近くを占有している。土塁の構成が河岸側には折れを設けなく、一方のみ横墻(おうしょう)が築造されている。また、後で述べる火薬庫の構造も配置も似ている。

これに対し、規模の差と年代差から築造工法等に相違点が多い。川下が石垣併用土塁に対し、古浦は砂丘であり粘土を築き堅めたものである。先に紹介した土塁も直線状の一文字土居に対し弧状である。古浦台場は砲床段を設けない単純な構造であるうえに、兵の活動が比例する兵站場の幅も川下の半分である。これらは、古浦台場が「土居構え」と称され和式の従来型に対して、川下台場が洋学の知識を導入して築かれた松江藩最新で最高の台場の左証である。

絵図面との整合性とその評価

現在、所有者が明らかにされていない図面 川下村控「松崎新台場絵図※」。この絵図面と現在の台場を比較してみて、絵図面の作成年代等を推定したい。

東台場の現存長は30bを測る。絵図の注記は拾五間(27b)としている。この数値は壊されるどころか成長している。幅は、五間半、一間、二間半と西台場と同数値を記入している。しかし、現存する台場でその数値を探すと土塁(居)の天場と砲床段(防壇)が二間半(4.5b)に相当する。絵図の描写からして一間は、胸墻の天場の幅員を示すと思われるがそうではない。また、ここで重要なことは、東台場の一大特徴である横墻を描いていなことである。

西台場ではどうであろうか。全長は35間(63.6b)と注記されている。現状は、若芽の種苗場建設で破壊されていることから推定値で70b以上である。大幅ではないが、ここでも数値に誤りが生じている。実物を測量したものであれば。有り得ないことである。

かつまた絵図の描写は、的確に台場を描ききっていない。下草刈りが終わって、石垣を観察しても絵図の描く砲門の痕跡らしいものを見い出すことができない。この他に、現存物を写実したものであれば漏らすことがないと思われる物件を掲げてみると。

・井手の暗渠が描いていない。

・広い兵站場が描いていない。

・兵站場の休憩(陣)所が描いていない。

・火薬庫が描いていない。

・東台場の横墻が描いていない。(再出)

以上のことから、この絵図は藩から川下村に築造の触れが出たとき地元で作成した絵図であったと推定できる。区有文書にこれに付随するものがないのであろうか。設計図ではないが、当時を知る貴重な絵図面である。

証言 火薬庫があった!!

お父さんの代から、台場についてご教示いただいた原寛さんに会うことができた。「調練下駄」のお願いで訪問したのである。お茶をよばれながら聞いた内容に意外な事実があった。石垣造りで横穴式の火薬庫が、西台場、東台場それぞれに設置されていたことである。

火薬庫があったことは、以前に同じ集落の故高橋丈夫さんから聞いていた。話では、自宅(実家?)には、子供のころに大砲の丸い玉が床においてあったと。意保美神社の近くに火薬を納めた小屋(穴?)があったと話されていた。

この二つの話を合わせると、台場の生命「火薬」の供給状態が知られる。品川台場には、火薬庫、玉置場、玉薬置所が設備されていた。火薬庫と玉置所は、一台場に1〜2カ所に対し玉薬置所は10カ所以上が備えられている。砲門数と比較しても川下台場の東土塁脇に掘られた火薬庫は玉薬置所であったと思われる。品川台場の写真をみても石垣造りで西台場の暗渠構造に酷似している。

古浦台場は、烟硝倉と呼称されて2カ所が報告され、「穴倉式にて僅かに屋根が地上に出ておった。」と聞き取りされている。

幼年時代、かくれんぼで絶好の隠れ場所だったと語る原さんの眼差は遠い昔に還っていた。

『野戦築城教範』の防御に於ける築城において、砲兵の陣地について、「観測所、放列及び後方に於ける弾薬援護の設備、此等相互間並びと後方との交通、連絡設備等より成り要するれば之に自衛の設備を施す」と定めている。

旧平田市と県文化財課は、この全長の定義を土塁の長さにとったことから、この度の進入道路の設計に許可したらし。

 台場とは、大砲の乗る台状の場(檀)から附された名称である。ですから初期の台場は、台状の檀のみで胸墻(きょうしょう)と呼ばれる土塁はなかった。これからして、台場の長さは、絵図面に云う「防檀」としている、大砲を据え

付ける壇の長さを指している。

当記事は『古寺逍遙』を書かれ、「十六島湾台場群を守る会」の方のものです。資料が不足して全文の掲示が出来ない事をお詫びいたします。場所は平田市( 現出雲市)河下町です。

また、古い町の歴史を刻んだものが無くなってしまう恐れがあります。